「いじめ」という言葉が問題をカムフラージュしている

2012.07.24発行 Vol.179
 このところ学校での「いじめ」について議論されることが多くなっています。もともと長期間にわたって続いている問題ですが、大津市の事件がこの問題を再度クローズアップさせることとなっています。

 私は、この「いじめ」という言葉が、多くのことをカムフラージュしているのではないかと思っています。大津の事件で起こったことは、学校という枠組みを外すと、暴行や強要という刑法上の犯罪行為です。中学生たちが刑事罰に問われるかどうかは別として犯罪であることに間違いはありません。それが「学校」という組織がかかわることにより「いじめ」というふうに名称まで変わってしまうのです。もし、学校と全く関わりないところでこのようなことが起これば、当然、最初から警察が介入することになるはずです。

 それが、学校という枠組みの中で起こった場合には、学校や教師、親が一義的に解決する問題としてとらえられ、それが「いじめ」という別の概念として認識されているのです。このような場合に、学校や教師、親が解決できれば、それはそれで問題が大きくならずに済むのかもしれませんが、現状の大きな問題は、現状彼らでは解決できなくなっている場合が少なくないということなのです。

 これには、戦後教育の問題、教師の質、親自身の教育の問題などさまざまな問題が考えられます。戦後生まれの私たちは、まともな道徳教育や生き方の教育を受けていないので、教師や親の中には、人生や生き方、何を行って良いのか悪いのかということを十分に判断できない人も少なくないのです。そのような社会背景の中に学校があり、いじめの問題があるのです。

 中長期的には、道徳教育などを強化し、教師や親の質を上げていかなければなりませんが、少子化問題同様、短期的にはこれだけでは問題は解決しません。このような場合、学校という枠組みで考えてしまう「いじめ」という問題を、当面は学校だけで解決するのではなく、社会全体で解決するしかないと私は考えています。つまり、警察やその他の組織の介入を行うことです。大津のような事件の犠牲者をさらに増やさないためには、学校という枠組みだけでものごとを考えるのでは短期的には限界があることは残念ながら明らかです。

 中長期的には、道徳や生き方の教育を強化していくしかありません。政府には強くそのことを要望します。それまでは、少なくとも私たち自身が、現実の世界にしっかりと根差しながら、論語など古典や宗教書などから生き方をきちんと勉強し、それを周りの人たちに伝えていく努力を怠らないことが必要ですね。